<目的ー手段>図式
あけましておめでとうございます。
三島由紀夫『近代能楽集』の「班女」を謡曲「班女」と比較し 、扇の絵柄を変えた意味、「実子」という新たな登場人物に与えられた意味、そして物語の結末を大きく変更した三島の意図をふまえ、翻案「班女」を読解するという作業に行き詰まり、しかし発表の日は刻一刻と迫っているという現実に、いよいよ焦りを覚えている26松野です。
みなさま待望のGulls blogリレーのトップということで、張り切って文学部感を出してみました。
いやーー。新年早々、衝撃が走りましたね。
「GACKTの連勝記録 39でストップ」
2016年も波乱の幕開けでした。
そんなことはさておき。こっからは帰省中に考えたことを書いてみたいなと思います。
父の運転する車に乗り、初売りセールのためイオンへと向かっていた時のこと。
父の車にはカーナビがなく、昔から運転中はラジオを流しているのですが、ふと聞き覚えのあるメロディーが聞こえてきました。「ドラゲナイ~ドラゲナイ~今宵~」
そう、SEKAI NO OWARIのドラゲナイです。
そんなSEKAI NO OWARIについてかねてから思っていることがあるのです。
『RPG』という歌の中にはこんな歌詞があります。
「『方法』という悪魔にとり憑かれないで 『目的』という大事なものを思い出して」
これ、深くないですか??
1年前、社会学基礎という講義にて<目的ー手段>図式というものを学び、「手段の目的化」的なことを学んだ気がします。(うろ覚えですが)
それはシンプルに言えば、ある「目的」を達成するための「手段」があり、その達成の為の方法に過ぎない「手段」を実践すること自体に意味を見出だすようになってしまうことをいいます。
これを僕たちの身近なもので例えてみます。
スイムの練習で、drillにストレートアームがあるとします。
ストレートアームという練習はあくまでも、それを行う先にある「目的」を達成するための「手段」ですが、腕を曲げずにしっかり伸ばして泳ぐこと自体を「目的」としてしまうようになることです。ストレートアームの「目的」は別のところにあるはずです。(詳しくはスイムパートリーダーに聞いてみましょう)
このような状態、つまりは練習メニューをこなすこと自体が「目的」となってしまっていては、僕は、今後の伸びはあまり期待できないと思っています。まして、僕たちのような練習の絶対量が少ないチームは尚更、1回1回の練習の「目的」を認識しておくべきだと思うのです。僕たちが各練習を漠然とこなすようになったら、OWARIですよね。逆に、そういったことを出来ているのが質の高い練習ではないでしょうか。今後、こういった質の高い練習を積み重ねていきたいですね。
以上、「SEKAI NO OWARIに学ぶ<目的ー手段>図式」でした。
この一年、「方法」という悪魔にとり憑かれず、「目的」という大事なものを思い出していけたら、素敵ですよね。
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