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Iron Road

“Born to Run” の邦題は “明日なき暴走”。

どう訳したら、こうなったのか。


Bruce Springsteen のアルバムはこの1枚しか聞いたことがない。

高校の時に出会って以降、無性に聞きたくなる時が訪れる。

魂とともに熱く駆け抜ける、疾走感あふれる1枚だと思う。


最期の時まで想いを乗せて走り続けたいと思う。











29の橋本です。


広島県因島でのインカレ予選を終えた2週間後、

6/18 Australia CairnsにてIRONMAN レースを終えました。


自分の掲げた夢に、目標に辿り着きました。

前回のブログで最後に書いた通り、IRONMAN橋本としてご報告ができます。

嬉しい限りです。


このIRONMANへの挑戦が25歳最後の挑戦でした。

25歳最後の挑戦は、たくさんの人に背中を押してもらって臨む自分への挑戦でした。


25歳を終える前に、挑戦を通じて考えたこと、感じたことを書き残しておきます。





今回のIRONMAN挑戦は、

最初に声をかけてくれた30中山をはじめ、背中を押してくれた両親、

そしてこの挑戦を応援してくれた本当に多くの方々の支えがあって、

終えることができました。


出発の前日にはGullsよりメッセージ入りの旗をいただきました。

インカレと無縁だった自分には7年目にして初めての旗でした。

いただいたメッセージは何度も読み返しました。



レースの前後でもLINEなどを通じて、たくさんメッセージをいただきました。


IRONMAN TRACKERアプリを入れて経過を見てくださった方も、

フィニッシュの中継を見てくださった方も、本当にありがとうございます。

フィニッシュでの叫びがCairnsの地から遠くにいた誰かに届いていたら嬉しいです。


中継があることは30田邊がお知らせしてくれていました。

同日レースだった宮トラ組は遠征メンバーみんなで見てくれたそうです。


帰国して一瞬部活に顔を出した時の、04秋山の「見てました」も嬉しかったです。


東日本インカレ帰りの01玉麻からは他大学でも反響があったらしいことを教えてくれました。

あまりに大袈裟な気もしましたが、これもありがたいことだと思いました。


どれだけの人に見てもらえたか、届いたかは把握しきれていませんが、

最後まで頑張り切ることができてよかったと心底思いました。


本当にありがとうございました。




今回を機に何人かがロングに興味を示してくれました。


2017年には28松尾さんが、2018年には28渡邉さんと28足立さんがロングに出ていましたが、それ以降在学中にロングに出る選手はいなかったように思います。


2022年夏に同期の29哲平がミドルの世界選手権に挑戦しました。

Gulls在籍の選手では久しぶりの海外挑戦だったと思います。


今年の春には03岡田がデュアスロンの世界選手権に挑戦しました。


今回のIRONMAN挑戦は

今日までのGullsの挑戦の足跡の先にあったもののように思います。


中山の年代別優勝はさすがでした。

今度の皆生でも、インカレ本戦でも、国体でも、日本選手権でも

その力を十分に魅せてくれると思います。



費用はかかりましたが、それだけの価値がある挑戦でした。

モチベーションの高いうちに、勢いのあるうちに、「挑戦しよう」と思えるうちに、後輩たちにも挑戦してみてもらいたいと思います。





博士課程進学を考え始めたあたりから「自分にしかできないことをやりたい」「誰も真似できない人生を送りたい」と思うことが増えました。


一方で、ずっと昔から根本にあり続けるのは「橋本ができるんだから自分もできるだろう」と思ってもらいたい、という相反する思いです。


中学で陸上をしていた時も、高校でカヌーをしていた時も、予備校に通っていた時も、真っ当に努力して、見合った結果を出して、切磋琢磨した人や応援してくれた人と一緒に喜ぶ。

そして、「橋本が頑張ったから、自分も頑張ろう」と思ってもらう。

このように思ってもらいやすいようにも、人を大切にし、チームを大切にし、心を尽くしてきたつもりです。





トライアスロン競技を始めて、自分の中に掲げていた目標、

1つはインカレ完走、そしてもう1つはIRONMAN完走。


インカレ挑戦は予選を突破しない限り、その先の道は開けません。


IRONMAN挑戦は「やるか・やらないか」の先にあり、道は開けていました。

IRONMANへの道は来るものを拒まない。




Gullsに在籍する選手、特に幹部を終えるまでは、積極的にインカレに挑戦する姿勢を持ってほしいと個人的には思います。


インカレ挑戦をまだ自分は諦めたわけではありません。

本心を言えばインカレ挑戦の後にIRONMAN挑戦、というのが理想でした。


「できるときにできることを」

「やりたいときにやりたいことを」



トライアスロンは生涯スポーツです。

IRONMANの挑戦は、いつでもできると思うのが正直なところです。


IRONMANは間違いなく“開かれた市民レースの最高峰”だと思いました。



挑戦できるのであれば、学生のうちに一度、

できることならインカレ挑戦を終えた後に。


新しい道が開けるかもしれません。



「無理だと思う」から「自分もできるかもしれない」へ。

「自分もできるかもしれない」から「挑戦しよう」へ。



今回の自分の挑戦が、応援してくれた方々の活力に繋がれば本望です。







長くなるので先に書いておきたいことを書きました。


この後は要所要所で読んでいただければと思います。



【挑戦の始まり】

【IRONMANに向けて】

【目標設定とレースの結果】

【レースの振り返り】

【レースを終えて】

【今後のこと】



何回かに分けて書くのが礼儀かもしれませんが、

あまり時間もないので一気に書き残しておきます。


申し訳ありません。




【挑戦の始まり】


昨年の8月に研究関連の研修でスウェーデンに行った。高校の修学旅行以来の海外は、自分の語学力のなさに打ちのめされた。8.30にInstagramにこの研修のことを投稿し、「国際学会とか海外のIRONMANレースにチャレンジできたらいいなと思っています」と書いている。この投稿に中山が「ironmanレース僕も出たいです!」とコメントをくれた。これが自分のIRONMAN挑戦が始まるきっかけであった。


翌日8/31に改めてLINEでお誘いをくれた。既にツアー会社に問い合わせており、中山の本気度を感じた。しかし予想費用(~40万)はわかっているとはいえなかなかのものだった。9月実家にいる際に、両親に「挑戦したい」と伝え、背中を押してもらった。


少し時間が空いて11/14に挑戦する決意をし、中山にLINEをした。中山の誕生日だったので「おめでとう」と「IRONMAN行きましょう」同時に送った。この時点で既にマラソンには2つエントリーしていた。IRONMANに出ることも意識していたかは覚えていないが結果オーライだった。この日からIRONMAN完走を意識する日々が始まった。




【IRONMANに向けた準備】


 体力も筋力もすぐに戻るわけではないことは、2020年からの3年間で十分に経験積みだった。まずは慌てず少しずつと考えた。「できそうなことをできる範囲でやってみる、失敗したらやりなおせばいい」をモットーに練習習慣を取り戻すことから始めた。ちなみに、インカレ予選はIRONMANの後のつもりだった。3種目それぞれを以下にまとめる。


〇 Swim


週2の安芸津練には極力参加する、これだけを目標にした。まずはBコースのメニュー完遂を目指した。“できる”という達成感を積み重ねることを大切にした。車出しで部にも協力できたのもよかった。土曜の黒瀬練は行く体力がなかったので、ここは毎回休ませてもらった。欠席も何回かしたが、車出しがいい理由となって4月まで続いた。


〇 Bike


10月末から家でのローラー練を始めた。平日は研究室からの帰宅後21時くらいから、幹部の時に自分が作っていたようなメニューを作ってみて60分とりあえず漕ぐ練習をした。これは習慣化に失敗して、11月半ばまでの4回くらいで終わってしまった。Stravaで01玉麻がグスピ周回で長い距離を漕いでいたので真似をしてみた。一回目(11.20)は50kmで集中力が切れてしまってやめたが、翌週(11/27)リベンジして100km(ave 30.7km/h)で漕いだ。これは自信になるナイスチャレンジだった。ここからしばらく空いて、12月末に煩悩ライドグスピ周回108周を企画し(ブログ「SAIJYO108」参照)、4日間(周回5.3km×27周/日)で570kmくらい漕いだ。このうち550kmくらいは中山にキャリーしてもらう結果となったが、距離への不安はかなり払拭された。

 

年を越し修論の時期はバイクに乗らず、2月末から家でのローラーを再開した。メニューを作るのはやめて、決めた時間の分だけ漕ぎ続ける方針に変えた。30~90分の範囲でとりあえず漕いだ。3月末に高知の藤井と30尭と2泊3日で四国半周ライド(480km)を行った。グスピ周回と違ってタフな道もあったが、大きな故障なく無事に終わった。これも自信になった。

 

四国から帰ってきてBikeに乗るのがあまり億劫でなくなった。相変わらずローラーばかりであったが、この辺りから120~240分できるようになってきた。DAZN無料視聴券を手に入れたことも大きかった。週末のJリーグ・大分トリニータの試合は確実に2時間のローラーを可能にした。水曜日に試合があったときはSwim練から帰って試合を見ながら2時間やった日もあった。 GWに一度6時間漕いだ。さすがに堪えたが、時間も怖くなくなった。インカレ予選の1週間前に四国以来の外乗りをした。インカレ予選のバイクは予選後のブログ「燃えている限り青春」参照。


〇 Run


 3種目の中で最もコンスタントに練習を積めた。Jogは昨年のアクアスロンくらはしAタイプ(S:2.4km, R:20km)参加を機に習慣化しつつあったこと、マラソンに2つエントリーしていたことは幸いだった。ラン練に参加できそうなときは競技場の周りでポイント練を眺めながらjogをするようにした。11月以降月間100~130km(歩いた距離も含めて)は達成していたように思う。マラソンの2,3週間前には20~30km走をやった。マラソンが終わった後も15~20km走はできるようになった。マラソン2レースの結果は以下の通り。


・2022.12.18加古川マラソン3:33:26  3時間半を切れずにそれなりに肩を落とす。

・2023.02.19 高知龍馬マラソン4:06:24  4時間を切れずかなり肩を落とす。


 龍馬マラソンは中山と1時間半以上差をつけられた。ボロボロで完走して、走るのが嫌いになりかけたので、シューズのせいにした。結局しばらく走りたくなくなって、これまでのjogの時間と体力はローラーに充てられた。卒業式の日に29雅人とフジのヒマラヤに行って「asicsがいいよ」と言っていたので、素直に従った。長年履いたadizeroに見切りをつけたが、これは大正解だった。シューズを変えてまた走るようになった。IRONMANは何を履いて走るかを決めかねていたが、評判のいいメタスピードスカイを履くことにして、インカレ予選の前に急いで調達した。もったいぶらずにjogでも履いて足に馴染ませ、予選でも使用した。予選の後はSwimもBikeもしなかったが、jogだけはやる気があったので10km、15kmのjogをした。




【目標設定とレースの結果】


昨年秋にはGulls内での個人年間計画には以下のように記している。

半分は無理を、半分は希望を込めて書いた覚えがある。





レース前日のInstagramには

「Swim 80分、Bike 360分、Run 240分、あわよくば11時間切り」と書いた。

弱気の表れであり、保険をかけていくいつものスタイルは健在。


次に本レースでの記録をまとまる。


Swim (3.8km) 1:09:32 (395th )

T1 0:09:43

Bike (180km) 6:00:06 (418th )

T2 0:12:02

Run (42.2km) 3:32:20 (81th)

Total (226km) 11:03:43 (249th / 830)


11時間切りという目標を達成はできなかったが、昨年定めた目標に近い結果でレースを終えた。自分でも理想のタイムに近すぎて気味が悪い。自分のことをわかっていた気もしたし、一方で自分で限界を決めてしまっている気もした。ショートの練習はあまり意識していなかったが、しっかりベースが作れたからインカレ予選も大外れとはならなかった。およそ半年かけた準備だったが、狙い通りと言えば狙い通りだし、自分を褒めてあげてもいいかなと思う。




【レースの振り返り】


トライスーツはZERODを2着持って行っていたが、3年前に作った勝負服を選んだ。かなり傷んでしまう気もしたが、インカレに縁のない自分にとってはここが一番の勝負所だと考えた。(あと中山も着るみたいだし、使っていかないともったいないし。)ロングのレースで背中のチャックを開けて走る選手は中山と自分だけだったかもしれない。


レースの内容を超簡潔にまとめるならば、ただ淡々と粛々と泳ぎ、漕ぎ、走る。

目まぐるしいレース展開はほとんどなく、ただ一心にフィニッシュラインを目指した。

これはショートと全く違うところだった。



Cairns, Palm Coveの夜明け。70.3のスタートを見て気持ちが入った。



● Swim (3.8km) 1:09:32 (395th ) (目標1:20:00)


こんな距離一回で泳いだことないし、昨年秋からSwim練を再開したとはいえ1回の練習でもこの距離をやっていない。しかし、前日試泳に訪れた際に「なんとかなるし、問題なく行ける」という自信があった。


ローリングスタート形式は初めてだった。Zone1(65分以内)のピンクキャップの選手のスタートを「中山はもう出たかな」とドキドキしながら眺めた。自分はZone2(65~76分)の青キャップ。その中でも後ろの方に並んだ。順番が近づくたびに息を整える。4列を作るフェンスがあり、中央にはMCの男性が声をかけ、選手とグータッチを交わしていた。自分も中央寄りに並び、例にもれずグータッチをした。息をのみ、背筋を伸ばし、スタートを迎えた。もう戻れない、とにかく前進あるのみ。



4人ずつのスターㇳとはいえ、間隔も短いため周りに人はたくさんいた。上陸なしの3.8km。後ろについてうまく泳ごうと決めていたので、できる限り人の近くで泳いだ。大きなブイがいくつか浮かび、およそ180mほどの間隔、1個目、2個目、だいたい今どの辺だな、あとどれくらいかな、と考えながら泳ぐ。例年波の立つとされるCairnsの海はおおきなうねりを持つだけで穏やかだった。最後の1000mくらいは大柄の人の後ろにぴったりくっついて泳いだが、何回か指先が足に触れてしまったためか大柄の人は泳ぐのをやめて振り返ってきた。さぞ自分でなかったかのように左側に位置をとって知らないふりをしてみたりした。あの人にはごめんなさいと伝えたいし、とても助けられたとも伝えたい。上陸後すぐに時計を見ると70分を切っていて驚いた、上手くいきすぎだ。Avg. Pace 01:47 min/100m。ペースは今の練習量、実力通りであったが、3.8kmも持つとは思っていなかった。




● T1 0:09:43


今回のレースで11時間切りをできなかった理由の一つはトランジである。「ロングだしのんびりやろう」と決めていたが時間をかけすぎている感じは否めない。トランジ用更衣室には椅子がおかれ、そこに座って一つ一つ動作の順番をボソボソと復唱しながら、忘れ物のないようにやってみた。これは慌て防止になってよかった。ウエットを脱ぎ、足をふき、まずソックスを履く。ソックスは30尭が広島を離れる前にくれたものを使わせてもらった。すごく気に入っている。尭ありがとう。次にアームカバー、これは日の当たる場所を減らすために。しかし、乾ききっていない体に装着するのにかなりの時間をかけてしまった。そしてグローブ。これも少し手間取った。アームカバーなどのパーツはSwimの前からつけておいてもよかった。


トライスーツでレースをしてもよかったが、日焼けでのダメージが残りそうだったのでサイクルジャージを着た。ポケットがあることも理由の一つだった。Gullsのサイクルジャージは2018年冬ごろに自分が作ったものだ。今の選手たちはあまり知らないかもしれない。(こんなところで急に書いても仕方ないがそろそろ新しいサイクルジャージを作ってみてもいいと思う。)作ったといっても、注文時にメーカーに広島っぽくてカモメっぽいデザインにしてくださいとデザイナーの方に超ざっくりしたことを伝えたら、あんなにおしゃれにしてくれたのだ。とはいえ肩回りや襟元、体側部にはある程度こだわったし、カモメのシルエットも結構気にして作った。腰にはスポンサーのように色々ロゴも載せた。このサイクルジャージを着て海外の地を、それもIRONMANを駆け抜けられると思うと、これも一つの喜びだった。


話が少し逸れてしまったが、あらかじめビンディングシューズを履き、背中のポケットに一応のチューブとCO2ボンベ、幾つかの補給を入れ、トランジションバッグにSwimセットを放り込む。ボランティアの人に「Thank you!!」と元気よく伝え外に出た。前日からバイクラックで自分を待っていたRIDLEY FENIX SLには「よろしくな、頑張ろう」と小さく声をかけた。途中に構えるカメラマンの前をにこやかに通り過ぎ、最も長いBikeのスタートに向かった。





● Bike (180km) 6:00:06 (418th )


飛び乗りは全くする気がない。これはロングの特権だろうとゆっくり乗車をする。気持ち十分に載せてBikeスタート。バイクコースはCairns到着後にバスでの試走の予定であったが、飛行機が遅延してしまったがために中止となっていた。比較的フラットと聞いた話を信じ切っていたが、結構登りがあったので下調べ不足を後悔した。


75kmを2周回と市街地へ向かう30kmで180km。周回往路は追い風だった。少し踏めば35km/hくらいすぐに出る。あとのことを考えると調子に乗りすぎ?と疑問を抱きつつも、ここで時間貯金を作ることにした。往路は33km/hだった。遠征に出る前に高知の藤井におすすめの補給を聞いていた。「エネ餅」との回答だったのでamazonですぐに買った。レース中には10kmごとに補給をとるようにした。急遽購入したトップチューブバッグにパンパンに補給を詰め込み臨んだが、全部は消費しなかった。補給で無理だったのはカロリーメイト。口の中の水分を全部取られるし、呑み込めずボフボフっと咳き込むので、惜しみながら捨てた。ボトルは2本積んでいた。一つに水を入れ、一つにモルテンを溶かしたものを入れた。2本しかないボトルゲージを最初から埋めてしまっていることはミスだったなと思う。


水のボトルは30 kmあたりでほぼ空になってしまった。長く使ってきたボトルをCairnsで捨ててしまうのは気が引けたので、背中のポケットに収めた。エイドステーションでは水のボトルとゲータレード(電解質ドリンク)のボトルを手渡しで渡してくれる。3回目のエイドステーションから極力1本ずつ取った。1つは空いたボトルゲージに、もう一つはサイクルジャージのチャックを少し下げ、胸のあたりに収めた。次のエイドステーションで受け取った分は捨て、新しいものを受け取り、またそれぞれ同じように収める。この方法で何とか最後までやり通した。

ロングレースのときのボトルは捨ててもいいものを使うか、あらかじめボトルゲージに余裕を持たせておいたほうがいいと思った。エイドで受け取ったボトル2本を日本に持ち帰ったので、次挑戦するときはこの2本を使用しようと思う。この方法はツアーで一緒だった人から教えてもらった。



中山には26km地点ですれ違った。急に声が飛んできたので驚いたが、いつもの中山がコースにいて心細さはなくなった。どれくらい差が開いた?と考えていたが、この時点で20kmの差があったことに復路に入って気付いたときは驚愕した。


 30km付近でから体に異変があった。腰が明らかに痛い。ポジションは問題なかったはずだし、最近の練習でも、2週間前のレースでも、ここまでの違和感はなかった。Swimで腰を反りすぎたか、路面の粗さが響いたか。DHバーにお守りのように貼り付けてあったロキソニン(1錠目)を躊躇せず飲んだ。多分これが無かったら、もっと時間がかかっていたか、リタイアしていたかもしれない。DHポジションを辞め、背中を立てたり、ブラケットを持ったり、とにかく色々試した。復路が向かい風だったことや、意外にアップダウンがあることが苦しみを増やした。110kmくらいまで投げやりな気持ちになりつつ、何とか漕ぎ続けた。このレースで2番目にきつい時間だった。


 2周目の復路に入る手前(115kmくらい)で2錠目のロキソニンを飲んだ。復路に入り、向かい風でないように感じたこと、心なしか腰の痛みが治まったことで機嫌がよくなった。気持ちも切り替えられた。前後にはポツポツと人がいるので、ドラフティングをとられないように距離感に気を付けながら、前を目指してみたり、同じ速度で走ってみたり、とにかく一人ぼっちにならないように漕いだ(心細くなるから)。みんな坂はとにかくゆっくり登るので、ここでかなり抜いた。かっこいいお兄さんを抜くときに「タフだね!」みたいな感じでグッドをくれたので、「Yeah!!」と返した。元気が出た。


 Bike終盤になるにつれてRunを意識して、再度エネルギーの補給を心掛けた。固形物を受け付けないような感じにはならなかったが、エイドステーションで配っているモルテンを躊躇なくとって飲んだ。ボトルとフードの配布距離感が狭く、ボトルをとるとモルテンが取れなかったりするので、エイドステーションを通過する前にあらかじめどっちをとるか決めた。飲まなかったモルテンはしっかり持ち帰った。


 周回コースを終え、残り30km。ここから市街地まで初めての道を通る。競技説明会では「残りの30kmが向かい風なので要注意!」と言っていたことは覚えていたが、本当にきつかった。このレースで1番きつかったのはBikeの残り15km。2周目の復路で抜いた人達にどんどん抜かされた。ドラフティングには注意してきたけど、弱さが出てしまい、抜かれたら離されないように漕いだ。ドラフティング以外の何物でもなかったが、道幅が狭いことを言い訳にした。何度も抜かれて付いて繰り返して、距離と時間が過ぎるのをとにかく耐えた。残り5kmくらいのところで赤いジャージの大柄の人が抜いていったので、ギリギリのメンタルで引っ付いた。結局この人の近くで漕ぎ続けてBikeを終えた。このおじさんは救世主だった。




Bike終了間際の写真。前の人が赤ジャージの救世主。


 Bikeは150kmまでは腰が痛いながらも6時間を切れるタイムであったが、残り30kmでのペースダウンが著しかった。ここが改善ポイントかなと思う。あと、ポジションも見直したり、腰への負荷を考慮したらさらに時間を削り出せると思う。TTバイクも欲しくなった。180km、6時間と長いなりに色々あったが、よく頑張った。降車はもちろん飛び降りなんかする気もない。ゆっくり安全に降車。




● T2 0:12:02


 Bikeをボランティアの人に託し、トランジバッグをとり、更衣テントに入る。空いている椅子に座り、とりあえず一息つく。腰が固まっていて、前傾になれない。

「え?今からフルマラソンやんの?」と一通り絶望し、Runスタイルに着替える。T1時と同じように忘れ物が無いようにボソボソと復唱する。サイクルジャージを脱ぎ、ソックスを履き替え、カーフサポーターをつける。シューズを履き替え、腰ベルトと補給(アミノバイタル赤)とロキソニンを入れたウエストポーチをつける。腰が痛いので一つ一つの動作に時間がかかった。また一息ついて、アミノバイタルとロキソニン(3錠目)を飲んだ。

 近くに同じチームと思われる日本人選手2人が着替えていて、「自分のペースでやろうな」と声をかけあっていた。その会話に耳を傾けながら、「よし、あと少し、頑張ろう」と気を引き締め更衣テントを出た。ランコースに入る前にトイレに行っておいた。ちなみにトイレはこれが最初で最後。


 T2もかなり時間がかかってしまっていたが、Runにむけてしっかり準備する時間になったと思うと、別にいいのかなとも思った。あとで分かったが、T2にかけた時間は780番目くらいらしい。やっぱり時間かげすぎかもしれない。




● Run (42.2km) 3:32:20 (81th)


走り始めは体が軽くて驚いた。ショートの時のように足が回る。最初の2kmを4’30前後で入ってしまった。こんなことでは体がもたないことは目に見えていた。ペースを抑えるために一旦止まってみて、腰の様子を確認してみた。足先に手を伸ばしてみると腰が悲鳴を上げた。腰を立てて走っているときは何ともないのが救いだった。腰のチェックはこれで終了。


中山とは1.5kmくらいのところでランコースで初めてすれ違った。Bikeですれ違ったときと同じように安心した。明らかに垂れ始めていて、(中山も垂れるんだなぁ)と思った。めっちゃ攻めたんだろうなぁ、と思いながら走っていると3kmくらいのところで中山に追いついた。聞いたらあと2周と教えてくれた。しっかり20kmも差をつけられているので笑った。中山が「さすがですねぇ」と言ってくれたのも面白かった。お互いに「ファイト」と声を掛け合って、再び自分のペースで走った。


沿道には常に人がいて、お祭りのように盛り上がっていた。日本では経験したことない高揚感はランの最初から最後までずっと続いた。トライスーツやナンバーカードの名前を見て「Hashimoto!!」「Satoshi!!」と呼んで応援してくれる。背中を押してくれる人もいたし、「ガンバレ!」と日本語で応援してくれる人もいた。ところどころにレース同行者や観光者と思われる日本の人も居て、「広大頑張れ!」と声をかけてくれた。Bikeで時折感じた心細さをもう感じることはなかった。中山だけでなく、ツアーで一緒だった方々とすれ違って声をかけあうことも楽しみになった。


 1~1.5kmおきにあるエイドでは必ず歩いて受け取った。しっかり水分をとり、体にかけるなどし、確実にこなした。コーラやレッドブルがあればそれも取って飲んだ。数秒のロスかもしれないが、これは走り切るために必要な時間だった。毎回水分を摂っていたわりには、腹痛などは一度もなかった。


 20km地点でロキソニン(4錠目)とアミノバイタル(赤)をとった。ここから歩く回数が少しずつ増えた。歩くといっても、10mあるかないかの距離で、走るときのペースは全く変わりがない。30kmの地点で、5’00/kmで走れれば11時間が切れると計算した。加古川マラソンでも龍馬マラソンでも28kmで完全に足が止まっていたが、今回は全く違った。ここまではよく走れていると嬉しくなった。


最後の1周回はほとんど日が暮れていた。少しずつ肌寒さを感じて、寒くて体が動かなくなるのではないかと新しい不安が生まれた。暗くなっても沿道の応援は絶えなかった。ランコースから少しずつ人が減っていることも感じたが、確実にフィニッシュも近づいている。不思議と気持ちは切れなかった。


 36kmあたりから歩いてしまう頻度が各段に増えた。300m走ったら、2,30m歩くようになり、この距離感もどんどん短くなってしまった。走れるペースは落ちないが、動きが長く続かない。11時間は切れないと思った。悔しかったが、できるだけ早くフィニッシュすることを決めた。


 残りの5kmは完全に頭にコースが記憶されていたので、「あそこまでは」と目標を決めながら走った。フィニッシュが近づくのは嬉しかったし、名残り惜しさも確かにあった。「長い1日だったけど、ここまで来れた。やればできるんだな」そう思いながら走った。


 フィニッシュゲートが見えた時には、体はもう止まらなくなった。周回コースとの分岐点で、フィニッシュゲートに続く道は人が溢れ、真っ赤に輝いていた。フィニッシュラインの手前までペースを落としたりはしなかった。



フィニッシュゲートの真下で、いかにも「記録に残せ!」というように足を止め、ガッツポーズを掲げ叫んだ。MCの人の「You are an IRONMAN !!!」を微かに聞きながら、フィニシャーメダルを首にかけてもらった。晴れて一人のIRONMANとなった。


大会公式の写真にはしっかりとその叫びの様子が残っていた。

この大会のカメラマンはレベルが高いと思った。





【レースを終えて】


 フィニッシュゲートの奥のテントにはフードやらドリンクやらがいろいろ置かれていた。空腹だったので揚げ物類を躊躇せず取りそれなりに食べた。思いのほか内臓は元気だった。たくさん並べられたレッドブルの缶は必要以上に取ってホテルに持って帰った。


 改めて「やればできるんだな」と思った。ビギナーズラックのようなものもあるかもしれないけど、練習を積んだ分の記録でレースを終えた。冬のマラソン2本はうまくいかなかったし、一時期嫌にもなったが、最後に助けてくれたのは最もコンスタントに積んだjogだった。中山から「ランラップ負けました」とLNEが入っていたので面白かった。中山攻めのランラップの反動の結果とも思うが、素直に嬉しかった。


IRONMANに行く前から、フィニッシュしたときにどう思うのか、というのは楽しみにしていた。「もう一生出たくない」と思うか、「もう一回出たい」と思うか。この挑戦で終わりなのか、この挑戦は始まりなのか。多分後者だろうなと思っていたし、実際にそうだった。ロングにはロングの魅力が確かにあって、それを一身に感じた。IRONMANしか出ない、という人がいる意味も少し分かった。KONAを目指したくなる気持ちも分かった。11時間を切れなったことなど、リベンジしたい課題もたくさんあるし、練習次第では10時間半、10時間切りも狙える気がした。もう次の理想を考え始めていた。


経験したことのない素晴らしい1日だった。






【今後のこと】


 帰国から少し休みながらも、できるだけ次の目標を早く決めようと思った。6月を終える前に早速2つレースにエントリーした。結局のところ、レースに出ることを決めたほうがモチベーションも保てるし、何より楽しくなる。


① 7/16アクアスロンくらはし(Sタイプ S:3.8km R:42.4km)


 Gullsでのデビュー戦から最もお世話になっている大会。数年ぶりに復活したSタイプにドキドキしながらエントリーした。タイミング的にも挑戦できるのは今年が最初で最後だと思った。あのランコースはIRONMANよりきつい気がする。時間制限をくぐり抜け、とにかくフィニッシュすることを目指したい。ちなみにこのレースはGullsOBがたくさん出る模様。在学中の選手も余裕があればぜひ応援に来てほしい。



② 10/1 LAKE BIWA TRIATHLON (S:1.5km, B:73.0km, R:20.0km)


ミドルは初。IRONMANを見てロングのモチベーションが跳ね上がった藤井と2020年の渡良瀬(チームTT)ぶりに一緒にレースに出る。最近までの練習習慣を継続し、少し強度を上げた練習も含ませながら、レースの日を迎えたい。



長い距離での勝負に魅力を感じてしまったので、これも踏まえて来年以降のことも理想としてはある程度決めた。


・宮古島トライアスロン

・インカレ予選

・インカレ本戦

(・IRONMAN Malaysia )※10月ごろ

(・IRONMAN NZ or Texas )※3~4月ごろ


IRONMANを終えて、藤井が最も推す宮古島を目指すには来年が絶好の機会だと思った。IRONMANに向けたトレーニングだけではスピードは出せないが、しっかりしたベースができた。自分の生活スタイルにもメンタルにも合わせやすかった。LAKE BIWAを中間点に置き、今の練習を継続することを当分の目標にしたい。宮古島までが上手くいけば、その先にインカレに向けた視界も良好になってくるのではないかと思う。どこまで実現するかは自分の力量次第であるが、やってみようと思う。



そして学生を終える前にもう一度IRONMANに出たいと思う。

誰か一緒に行こう。お金はためておこう。






最後に。



冒頭に書いたBruce Springsteenの名盤「Born to Run」。

1曲目はThunder Road、邦題は「涙のサンダーロード」。

勝利のための旅立ちの歌。


これまでに歩んできた道、ここから新たに開かれる道。


また新しい世界が始まった。

希望を持って挑戦したい。


行けるところまで進み続けたいと思う。


まっすぐに、すこやかに、まっとうに、しょうじきに。


意志あるところに道は開ける。


意思を持ち、道を開く。




丈夫な体に育ててくれた両親に感謝します。


また書きます。


おわり。


2023.07.01 29橋本サトシ

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