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消えぞこない

こんにちは、29橋本です。


次の4月からも西条にいます。


広島大学が西条にあるのだからこればかりは仕方ない。

最近は広島大学が大分にあったらよかったのにと無茶苦茶なことを思っている。


このブログを書きはじめた3/15は04企画のデュアスロン練に走路員として参加した。

とりあえず04大西が自分に「お願いします」のLINEを送ってくれるくらいの関係性を築けたことを喜びたい。


練習時に04秋山が落車したから整形外科に一緒に行った。

哲平に「ご飯行こ」のテンションで「病院行こ」って声を掛けたら二つ返事で一緒に来た。

01の小松も来た。全くお人好しな人たちである。


病院では秋山は車いすに乗せられてあっちへこっちへ連れていかれるのを眺めていた。

左手指先には包帯が巻かれ、右腕はギプスを付け吊るされていた。

骨折の診断だったが、病院に行くまでは泣き言も言わず、じっとしていた。

病院の帰りは動きが機敏になった。


家に送る前にいつものすき家で奢ってあげた。

利き手でない左手で頑張って食べていてたくましかった。

家が近い人はできるだけ率先して助けてあげてほしい。


これが超直近のGullsでの話。


修論発表前後くらいからなかなか行けなくなってしまったが、

行きたくないわけではない。4月からまた行きます。



ブログ更新日3/18は高知の藤井と30尭と四国を走っていると思う。

2年前は雅人と藤井と四国一周したけど、今回は日程の都合で四国西側を半周。

Instagramを更新してると思うのでそちらもどうぞ。



ぬるりと書き始めたが、今回はいつものような敬体ではなくて常体で書くことにした。

読みづらかったら申し訳ありません。




この春から博士課程後期に進学する。

こうやって文字にして発信するのは初めてである。

先進理工系科学研究科先進理工系科学専攻物理学プログラム博士課程後期、長い。

この進路選択の背中を押してくれた両親に心から感謝いたします。


研究は面白く、結果を出したいと思ったし、出せると思った。

1つ形になりそうなところで中途半端に終わって、後の人に譲るにはもったいないと思った。

だから3年間追加して挑戦する。

英語はまだ話せないが、話せるようにする。必要だから。


終わればさっさと大分に帰って教員として働きたい。

大学に残るつもりもないし、研究者になるつもりも、会社員になるつもりもない。

教員になりたくてこの大学に来たし、免許のために大学院でも多めに単位をとった。

働き出すのは29歳になる年、不安を言い出せば切りがないが将来の自分に任せよう。



多感な時期からは挫折と劣等感をたくさん積み重ねた。

この西条で生きた6年間でも十分に積んだ。


積み重ねたところで、辛いものは辛く、苦しいものは苦しいまま。

特にいいものでもないが、「経験豊かです」くらいは言えるだろう。


良い時もあったけど、基本的に低空飛行のような気の持ちようだった。

人生谷あり谷あり、そして谷あり。常に視界不良。

特にこの3年間はひどかった。よく耐えた。よく生き抜いた。

支えてくれた方々には本当に頭が下がる。


眠れない夜は続き、目覚めの悪い朝に嘔吐きながら支度をする。

体重が激減したり、激増したりした。顎関節症になり口が開かなくなった。

イライラで髪を引っ張り抜きすぎてところどころ禿げたので坊主にした。

1日が何事もなく、ただ平和に、心が穏やかに終えられることを1日の終わりに一人で静かに喜んだ。


人生はうまくいかない、人生は甘くない。


3/14に半年前に心血を注いで書いた研究費助成の結果が届いた。不採択。


<寸評等>

-- 研究計画に問題はないものの、厳しい評価基準を満たすには至りませんでした。- -


寸評は寸評であって、なにがダメだったのか全く分からない。

あっけらかんとした、まぁこんなものだ、これでいい。

結果が出るまで夢見心地でいるぐらいがちょうどいい。

変に調子に乗らず、自分が凡人であることを自覚できる。


悔しさは磨き上げ、力に変えればいい。

そうやって成り上がるのがいつだって理想だ。


「努力は実る」を掲げる予備校で1年間過ごしたが、実らせることはできなかった。

努力は必ずしも報われるものではない、このことは誰しもが何となくわかっていること。

でも努力しないと報われることもない。無駄な努力はない。


2022年度のこの1年で学会では発表賞3件をいただけた。

長年“伝える”ことを意識した結果がここで実を結んだのかもしれない。

おかげで何とか自分の存在意義を保つことができた。


こんな生活を少なくともあと3年続けることにした。

ぼんやり時間を過ごすよりはよっぽどいいと思う。

やりたいことがはっきりしているから。

どんな場所でも闘う男であり続けよう。


2020、2021と教員採用試験を受けて続けて落ちた。

だからこそ博士課程進学という道が開けたという点では、失敗も悪いものではない。

スマートに効率よく成功確率をあげるのは理想だが、そんな器用なことはできない。

成功のためには数を打って当てに行く。

失敗や挫折の数は挑戦した数だ、挑戦したことの勲章だと自分に言い聞かせる。


「なんとしてでも結果を出してやりたい。」「見返してやりたい。」

誰に対して、何に対してなのかは、もはやわからなくなってきている。

劣等感とともに生き、劣等感に埋もれた自分をなんとか救い上げたいのかもしれない。

誰かに勝つために、競争の世界を転々としているのかもしれない。


高校最後のレースの時に顧問の先生に

「お前みたいなやつが結果を出さないといけないと」涙目で言われた。

あの時の先生の顔が忘れられない。

それが自分の使命だと思ったし、だからこそ結果を残しに行く。


もっと楽しく、そして楽な生き方があるはずなのに、それは性に合わないのだ。

常に目標や夢に従順で素直に謙虚にしぶとく逞しくあり続けたい。

これまでも、これからも。




この6年間でのGullsではどうだったか。


間違いなく一番心と時間を費やしたのがGulls。

距離を置いてしまった時期も心の片隅にあり続けた。


結果と言える結果もなく、結局のところインカレ予選にも2回しか出ていない。


幹部の時のインカレ予選は当時のブログに思いを書いてある通り、不思議な清々しさはあった。

潔く負けたし、最も不甲斐ないレースだった。

インカレ予選はあのレース以来出ていない。


中途半端な存在、今の後輩たちからしたら何者なのかもあんまりわからない人だと思う。

“口だけの人”と思われていても否めない。自分ではそう思う。


自分の思っていた努力は、努力と呼べるには不十分だったとも今は思う。

インカレ出場を決める選手、特に同期のその姿を見て、歴然の差を感じる。



友人と言える人はこの大学にはGulls以外にはほとんどいない。

幹部を終えるまでは、とにかく部活、部活、部活。


部活のために勉強をし、部活のためにバイトをした。

それで十分に楽しかったし生きがいだった。


最近の選手は色々と充実しているようでまぶしく見える。

みんな器用だなと思う。


インカレに出たかったし、なにより国体に大分県代表として出たかった。

国体には高校の部活から異様な執着があった。

だから九州ブロック予選となる天草トライアスロンには2018、2019と2回出た。

2019には天草で2時間10分を切った。

これは大分県のブロック出場資格として記載があったから、挑戦権を手にできると意気込んだ。

翌年、出場希望の旨の連絡をしてみたら、10級(当時)の取得もしくは2時間は切ってほしい、と出場資格は与えられなかった。

丁寧に説明いただいたが、上り坂の先にまた上り坂が現れたような気持ちだった。

ひどくあっけらかんとした。

圧倒的な力があれば、力をつければよかっただけのことだ。

「よし、なら10級とろう!」という気持ちのスタミナはもう残っていなかった。


高校の時も似たようなことがあった。

代表を決めるレースで勝ったのに記録が悪いからと選考されなかった。

顧問の先生がひどく憤っていた。


“そのまま”を信じてはいけないということを理解した。

そのまま、という言葉の通りに思うようにはいかない。

予防線を張り、もしもの時に備えておく。心の平穏のために。


そしてコロナ禍が始まった。

出場権を持っていた2020廿日市アジア選手権エイジも中止になった。


ここから少しずつ心が不安定になって、よくわからない状態になった。

一度こうなったためか、今でも尾を引くように安定しなくなった。

後輩たちにはできるだけ経験してほしくないと心底思う。





競技面はこのように中途半端だったけど、チームや仲間はとにかく大事にしようと努めた。


個人競技とはいえ、まず“Gullsはチームであること”が自分の信条だった。

先輩方の姿から学んだものに、自分ができそうなことを合わせ、チーム力の向上に貢献できればと思っていた。

結局こういったものは自己満足なので、後輩たちの感じたものが評価どうこうに相当し、この結果を自分はあまり知らない。

何人かの後輩の成長の助けにはなったと思っているし、全く縁のない人もいた。


インカレ予選で負けてからは、悔しさもあり、体調も悪く、まともな練習を積めなかったが、「インカレはチームとして挑む」を自分の中に掲げ、率先して声を出した。

少なくとも選手になれなかった自分の使命はそれであった。



幹部を終えてからも関わるつもりでいたが、先に書いたようなこともあり、継続的に、とはいかなくなった。

本当に申し訳ないと思っている。


別に自分がいてもいなくても、誰かが役割を担って、責任をもってやってくれる。

幹部の時は「自分が必要だ」と自惚れるように思っていたが、代わる人なんていくらでもいるのだ。

そう思うようになった。


この直近3年間のGullsの記憶というものはあまりない。

幹部時に入部した01がいつの間にか学部を卒業することが不思議でたまらないのだ。



コロナも落ち着いた2022はアクアスロンくらはしにだけは出ることができた。

Run 20 km のAタイプでかなり不甲斐ないレースをしたが久しぶりのレースを楽しんだ。

このことは(勝手に)ブログに書いた通り。お時間ある方はぜひご覧ください。


年末にはグスピ周回を108周した。これもブログに書いた。

少しアクティブさを取り戻したように思う。




明るいことを書こうと思っていたけど、書けなかった。

人の縁にも、周りの環境にも恵まれたが、心の方がどうしても欠けている。


卒業ではないけど、一つの節目として自分を振り返った。

こんな文はもう書こうとは思わない。

もっと明るいこと、楽しいことを書けるようにしたい。



あと3年、研究と並行して、まだGullsの選手として競技を続けたい。



結果もなく、口だけの、長いこと在籍だけはしている選手。

大学の世代入れ替わりの早い部活という中で、ボロ切れのような存在。


消えぞこないは消えぞこないらしくあるべきだ。


「老害」と呼ばれる存在にはならないようにしようと思う。

どんなときでもまずは謙虚でいよう。


“ふいて除けましょう、心の誇り、それがさび付きや身の破滅”


これは数年前に引いたおみくじ(末吉)に書いてあった言葉。

大切な心掛けだと思って、ずっと財布の中に忍ばせている。

Gullsの“埃”にならないようにしよう。


頼ってもらえる時にはできる限りでプラスにできるように返したい。

幹部を終えた選手の役割は最低限果たしたい。


年が離れすぎて、気を使われてるなと思う。

もう少し雑に扱ってもらっていいのだけど、そうもいかないのだろう。

03,04の仲のいいところにわざわざ入り込もうとも思わない。


来年の春には30中山と田邊も卒業する。

平成年度ナンバリング“29”は化石になる。


邪魔にならないように、邪魔をしないように、静かに、地味に、

新しい目標をもって、新しい自分として、あと3年、Gullsで競技を続けていこうと思う。




ここに2023夏の目標を2つ書いておく。


① インカレ予選のスタートラインに立つこと


今度のインカレ予選(西日本インカレ)は広島で行われる。

4年ぶり3回目の出場に向けて、ひっそりと量は少ないが練習している。


今年の幹部代はやる気も練習量も充実しているから、

もしかしたら、、、、で枠を獲得できるとは到底思えない。

多分出るだけで終わる。


しかし自分にとっては、もう一度このスタートラインに立つことが意味のあるものになる。

そう信じている。


結果は散々だったがこの冬マラソンには2回出た。

たとえ微量であっても練習習慣が春まで続いていることは2020以降初めてだ。

だから期待してください、などと言えるほどではないことが情けない。


今年の6/4、このGulls29の消えぞこないがスタートラインに立った時にはどうか檄を飛ばしに来てください。

もし立てなかったときは、その時はその時で檄を飛ばしてください、優しめでお願いします。



② IRONMANを完走し、「鉄人になる」を達成すること


6/18には一つ目標として掲げ続けたIRONMANに出る。

エントリーは昨年秋に済ませた。

声をかけてくれた中山に感謝してGullsでの夢を1つ終わらせたい。


中山を何時間待たせるか、というのは注目である。

フィニッシュするまでは、どんな形でもしぶといレースをしたい。






Gullsにいてトライアスロンという競技を通じて、たくさんの人と繋がれた。


入部当初に見た25さん、26さん、27さん、28さんに見た姿や志を受け継ぐことはできたのだろうか。

たくさん相手をしていただいたし、卒業されても気にかけてくださること、心より感謝いたします。


後輩もたくさんできた。

自分みたいな奴のことを嫌いな人がいることも重々承知しているが、

少しでも道標のようにあてにしてくれる後輩がいてくれたらよかったと思う。

そのことが自分の求めた結果の一つかもしれない。


今度の春には令和5年度入学生が入ってくる。05と呼ばれる代だ。

在学中に06、07にまで会うことができる。これは楽しみなこと。

どこまで関わっていけるかは自分の力量次第だがもう少しGullsと関わっていたいなと思う。



他大の合宿に出向き、外の人とのつながりもできた。

縁のできた人をインカレで応援することは楽しかったし、自分も一緒に競いたいと思った。


大学を卒業されても、活発にトライアスロンに打ち込んでいる先輩方や同期をSNSを通じてよく見ている。

こういった方々と、レース会場でもう一度会えれば、そして競えればいいなぁと思う。




やりたいことも思い残しもたくさんあるからやめない。

あと3年チャンスがあるから。

できるかはわかないけど、やってみようと思っている。

希望はあるぞ。

まだまだこれからだ、頑張ろう、頑張り続けよう。











以下、この6年間、特にお世話になった卒業生へのメッセージ。



26魏さん。

大学入学前からHPを見て勝手に知っていました。苗字は「ぎ」なのかなと思っていましたがトライスーツのネームが「GI」だったので感動しました。初めて見た観音寺のインカレで腕から血を流しながらも競技者として闘う姿がすごくかっこよかったことを鮮明に覚えています。制作した新しいGullsのサイクルジャージを注文する際に襟元のネームを「高GI」にしていたことも忘れません。28倉原さんの「離岸流」に負けず劣らずで、変な人だと思っていました。色々と生意気言ってすいませんでした。思えば熊本育ちのこの二人と天草遠征に二度も行きました。そして28村田さんも。2018年は魏さんと同部屋で、レース当日の朝に部屋から閉め出されたことも一生忘れません。4人で天草に乗り込んだ2019年のレースは、自分のベストレースでしたが、選手権で戦った魏さんと、エイジで戦った自分の間には、分厚い壁を感じました。感情的にならず、冷静な分析と判断、しかし熱い心を持ち「心は熱く、頭は冷静に」を体現する偉大な先輩でした。博士課程進学への道を選べたのも魏さんの存在がありました。9年間の西条での生活、お疲れさまでした。大変お世話になりました。レースにもう一度引っ張り出してリベンジしたかったのですが力及ばずでした。魏さんほどに偉大な選手・先輩とはなれませんでしたが、これからGulls HP のMember の一番上は僕が引き受けます。今度会ったら焼肉おごってください。



30尭。

Gullsでは29の初めての後輩の一人。2018渡良瀬チームTT二段坂46結成(尭と大誠と)からここまで仲が深まるとは思っていなかった。一緒に過ごした時間の中で尭に何かしてあげられたのかというのはよく思う。この春でいなくなることを初めて聞いたときは、喪失感に近い感情から言葉が出なかった。夢のスタートに立つことを手放しに喜ぶべきだったと後悔している、ごめん。朝ドラ「舞いあがれ!」を見ているときも、先日飛行機に乗った時も、これからは誰よりもいい席で、広い空と地上の挟間や昼と夜の挟間の美しい眺めを目にするのだとしみじみと思った。30幹部代主将としてコロナ禍初年の苦しい中で、よくチームをまとめて、そして選手として戦ったと思う。オンラインOB会の後に尭の家で少人数で飲んだけど、なんとも思い出深い夜だった。自分を慕ってくれた後輩であり、友人である尭の姿は誇りだった。たくさんの景色を見せてくれてありがとう。尭のような後輩に巡り合えたことを僕は自慢したい。これからもたくさんの人を新しい景色に誘っていくのだと思う。初めて空を飛んだ時、どんなだったかを教えてください。頑張れ尭。



ここからは苦楽の6年間を共にした同期29の3人へ。

苦労人の集まりだと勝手ながらに思っている。

格好つけて言うなら、一昨年卒業した同期も含めて、一つの時代を一緒に作ったと思う。

入学時幹部の27さんから28さん、29そして後輩30へと情熱の血脈を感じる。

一緒に地獄を見て、泥沼につかり、我武者羅に競い合い、

「仲間とは何か」をずっと問い続けたが、決して美しい形とはならなかった。

これこそが自分たちの“らしさ”だと思う。

ライバルであり、戦友であり、嫉妬するほどに頼もしい同期達へ。



みきてぃ。

同期で一番よくわからなかった人。はっきり言えばそう。幹部を終えるくらいまでは話していても、心の表面だけで、奥底では繋がっていないように感じていました。申し訳ございません。今となっては2019夏によくGullsを見限らず、Gullsに心を尽くしてくれたと思う。本人だけの苦しみはあったと思うけど、あまり表には出さなかった。してもらうばっかりで、もう少し自分にできることもあったのではないかと、たらればの嵐である。自分をはじめGulls全員みきてぃに感謝を伝えたほうがいい。その献身性は決して真似できるようなものではない。生真面目で芯のある人。Gullsマネージャーは外の合宿に行ってみれば、その凄さがとにかくわかる。Gulls内のマネージャー社会がどのようなものかはわからないけど、幹部を終えてから修士2年を終えるまで“支える”に徹した意思はこれからも後輩に受け継がれると思うし、選手も学ぶべきところがたくさんあったはずだ。Gullsがチームとして成り立つのは、強固な支えがあって、ということを忘れてはいけない。コロナ明け、修士になったくらいから、人が変わったかのように話をしてくれだしたので、それが不思議で、そして可笑しかった。大学院に残った29男3人は集まれば基本的に生産性のない行動や話ばっかりしていたが、よく相手をしてくれたと思う。自分は都合で行けなかった2022村上トライアスロンも03草野に続いて2人目に参加の意を示してくれたのはみきてぃだった。2022冬には加古川マラソンに同期がたくさん集まって全員マラソンや10kmやらに参加したのも面白かった。こんなことならもっと早くから誘いまくっておけばよかったのに。こうやってまた悔やむのだ。6年間、ほんとうにありがとう。



哲平。

哲平は優しすぎるのだ。2019初夏に一度哲平に対してひどく𠮟りつけた夜があった。話し合いか何かの後に、会館食堂のあたりから二人で歩いて帰った。重く騒がしい49㏄の愛車(NS-1、鉄の塊)をあんなにも長い時間押して歩いた日はあの日しかない。その日の夜は後悔だらけで眠れなかった。他者に尽くしすぎているようにも見えた当時の哲平の姿が自分の中ですごく悔しくて、「もっと自分のために練習して、自分のために戦えよ」というようなことを言った記憶がある。辛く苦しい時間で、もう一度経験をしたいとは決して思わないけれど、だからこそ、感じ、思うことが増えた。あの夏から3年経って、世界挑戦にインカレ出場、哲平は間違いなく2022 Gullsの主人公の一人だった。自分が示したかった姿を最後の年に哲平が示した。インカレ予選でガッツポーズを掲げる姿は誰もが待っていたはずだ。目の前で見たその勇姿に涙が止まらなかった。哲平の心の中に「誰かのために」という想いがあったかは聞いたことがないけど、「自分のために」頑張り、結果を出す姿が、たくさんの誰かに必ず、強く届いたはずだ。そうやって示せるのは誰でもできるものではなく、優しすぎる哲平が示した姿だったからこそ、待ちに待ったその瞬間に喜びと祝福で溢れたのだ。十分に「本気」を魅せてもらった。本人の望んだものはもっと別の姿だったと思うけれど、この6年間で示したその姿は抱えきれないような量だと思う。少なくとも僕には書ききれないほどに。哲平、ありがとう。哲平の勇姿は絶対に忘れないからな。



雅人。

一緒にいると精神年齢が著しく下がってしまう危険人物。“年相応でいよう”という意思には反したが、くだらないことを一緒にするのが一番楽しかった。何かと色々あった時も、わかっていなかったり、知らなったために、いつも通りの雅人を見て、精神を安定させていた時もあった。実はわかっていて、なんともないフリをしていたのかもしれないが、真相は知らない。多分だけどわかってなかった、どうなのよ雅人。とにかく色々と助けられた。雅人の凄いところは、継続性と安定性。もう少しで見れなくなってしまうHPプロフィールの“生物生産学部(2018,2019,2020,2021,2022インカレ出場)”がその全てを物語っている。「もういいや」「もうやめるよ?」だのなんだの言って5回もインカレに出た。童顔がゆえにインカレ時に年下にキレられる話も雅人らしい話である。ごくたまにガツンと言われると、なんとも的を得ていて自責の念に沈むのだ。「サトシは才能があるのに、努力しないことがムカつく」といったことは言われたときは猛省した。才能があるなんて言われたこともあまりなかったから困った。しかし、自分からすれば努力を継続することは紛れもなく才能なのだ。変に才能と思われるよりも、努力を積んでのし上がり、結果を出すことこそが自分の理想だったから。自分はどちらかと言えば努力を積んできた側の人間だと自覚をしていた。上には上がいて、そして線引きをされていたことを教えてくれたのは雅人だった。2019年のグスピ合宿あたりから丸と3人で居ることも増えて、その年の夏には短い間ではあるが29男3人だけになってしまった。とにかく色々とあったけど、一緒にいるときは楽しませてもらいました。ありがとう。また会ったらしょうもないことをしよう。この時間が僕はすごい好きだった。




これから大丈夫かな、誰に話とかしようかな、とか最近毎日のように思う。

同期がいなくなる。やはり特別な存在だった。


ピーキーな性格だから心配かけさせているんだろうなと感じた。

多分病むし、失敗するし、挫折もするだろうけど、ストレスもためまくるだろうけど、

これまで通り、強い心をもって、一生懸命にやります。


僕からは皆さんに、

新しいステージでも“らしさ”を忘れず頑張って、ほしいなとエールを送ります。

そしてお互い元気でいて、またどこかで会いましょう。

6年間という長い時間、苦楽を共にできたことは何にも代えられない僕の財産です。





一人になるけど29をもう少し続けます。


また書きます。


おわり。


2023.03.18 29橋本聡

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